死んだ日よりも生まれた日

kuririnn2004-02-10

病気や事故で、もう死ぬんじゃないかっていう状態になった時、このまま死んでしまうかもしれないと思ったとき、白血病や癌で死を意識したとき、ほとんどの人が、もっと生きたい、まだ死にたくないと思う。
自分の中のまだ生きていたいという気持ちの強さに気づく。
そういう、生きることに執着してる人たちがたくさんいる病院という場所が、おれはけっこう好き。
ときどきおかしい人もおるけど、抗がん剤でつるつるになった頭にニットキャップ被ったじいちゃんたちが、談話室で点滴打ちながら、打った抗がん剤の本数を自慢しあってるのを見るのはなかなか悪くない。
じいちゃんたちは明るいけど、本当はすごく苦しいんだろうと思う。それを助ける、医者、看護婦、病院の環境の違いは大きい。個人的には浜松では聖隷が一番好き。労災は、あれはどうにかしたほうがいいと思う。暗すぎる。暗すぎて死ねそう。
おれのじいちゃんは、香川県の滝宮病院の、3帖ほどの病室で2年前の6月に死んだ。
じいちゃん(俺の実家の隣で祖母、叔父、叔母、従兄弟2と同居)はもう何年か前からアルツハイマーパーキンソン病で、帰省するたび会ってたけど、俺がだれか分ってないときも何回かあった。それでも、会って、2人でコタツに入って黙ってテレビ見てるだけで嬉しかった。おれは小さい頃じいちゃんっ子だった。
3年前の年末に帰省した時、じいちゃんはすごく調子が良くて、俺の顔見てすぐに名前を呼び、はっきりカツゼツ良く喋った。帰る少し前に、調子が悪くなってきてるという話を聞いていたので、よけいに安心した。
年が明けて、2月か3月に、じいちゃんが入院するという連絡を受けた。もう良くはならんけど、すぐに死ぬことはないと、なんでもなさそうに言う父親に何も言えんかった。
ちょうど4月に帰る予定があったので、お見舞いに行った。帰って来た日は、父親と2人で。じいちゃんは寝てて、ばあちゃんも入れ違いで帰ったところだったらしく、花の水だけ変えて帰った。次の日は妊娠中の妹1人を除いた家族4人でお見舞いに行った。この日は調子が良かったらしく、意識もあるのか、動きに反応してた。でも、自分じゃまったく動けないし、喋れないので、ばあちゃんやおばちゃんたちは意識がないと思ってるのか、床ずれで腐ってきた足やガリガリの体をみんなに見せて、すごいやろ、とかいろいろ言ってた。俺はまともに見れんかった。
ほとんど泣きそうになってた俺が椅子に座ると、じいちゃんが俺の方を向きたそうにしてるので、ばあちゃんが体の向きを変えてあげると、点滴だけで栄養を取ってる干からびた体のじいちゃんの目に涙が溜まってきたので、ほんとに泣きそうになって必死でこらえた。みんなは、「だれかちゃんと分ってるんやねえ。」と今頃言う。このときのことは一生忘れないと思う。帰り、家族を先に車に乗せて、トイレで声殺して号泣した。
結局、このときがじいちゃんと会った最後の時になった。すぐに死ぬことはないと言ってたのに。2ヶ月後、6月の夜10時過ぎ、妹からの電話ですぐ分った。荷物をまとめようと思っても、いつもなら10分で終わるのに何をしたらいいか分らず、1時間くらいボケッとしてたと思う。あまり記憶がない。
次の日、帰ってじいちゃんの家に行くと、顔に白い布をかけたじいちゃんがいた。よく考えれば当たり前の事なんやけど、その時は突然で心の準備が出来てなく、顔も見ずに家に帰った。死んでから24時間、鈴をならしてないといけないらしく、ばあちゃん、ねえちゃんと俺で徹夜で話しながら鈴をならした。
確かこの日だったと思う。トンボが迷いこんできたので、捕まえて外に逃がした。トンボを触ったのは久しぶりだった。
葬式を終えて、火葬場へ行った。喪主のおっちゃんは、点火スイッチがどうしても押せないらしく、係の人に押してもらってた。最近俺は、親が死んだら点火スイッチは自分が押してやろうとなぜか思ってる。焼き終わるまで控え室でごはんを食べる。人間どんなときでも飯は食う。遺骨を拾う。もちろん生まれて初めて。何も感じないのはなんでやろう?と思った記憶がある。
家族が一人減った。ずっと実家を離れてるせいか、いまだに実感のようなものがない。もしかしたら、4月に病院で会えてなかったらまた少し違うのかもしれんけど。あの時は、確かに何かが伝わったように思う。そのことが、じいちゃんはもう死んで、現実の世界にいないという事実よりも大きいのだと思う。
今日は、大好きなじいちゃんの誕生日です。